ここに(あえて)色盲は、眠るのか?
タイトルは、ついて先日まで上野の国立西洋美術館で開催されていた展示のタイトルにインスパイアされたもの。
今日(2024年5月18日)は、毎月のCUD友の会、その後、CUD友の会でもお世話になっている工学院大学の市原先生の個展(+トーク&レセプション)に行ってきた。CUD三昧。なお、市原先生の個展は、表参道ヒルズ内の同潤会ギャラリーにて、5月20日(月)まで。お近くの方はぜひ。
そんな色覚の日、ともいえる今日。考えたことは、以下の2つ。
・CUD友の会(あるいは、CUDO)は、(あえて)色盲の眠る場所となるか?
ここでいう「眠る」は、比喩としての「死」を意味している。「色盲」、「色弱」、「CUD」といった概念、考え方を過去のものにできるか?という意味。もう少しきちんと書くと、将来、遠い未来に CUD が当たり前になった世界の中で「かつて、色弱、色盲、そして、CUDといった概念があったらしいよ」という会話が行われるような社会にできるだろうか?ということ。そういう世界においては、CUDを広めようという活動は不要だし、色弱という言葉も死語になっていると想像できる。そういう世界を実現できるだろうか。実現する必要があるかどうかは、別の話として。きっと、そういう社会では「色弱」そのものが都市伝説になっているかもしれない。
・完璧なC型など存在しない
市原先生の個展のレセプション後の歓談タイムの中で出てきた。
これは、なかなかキャッチーだと思う。村上春樹風で良い。
もう少し村上春樹風味を強めるなら、こうだろうか?
完璧な色覚などといったものは存在しない。完璧な色彩が存在しないようにね
なかなか、悪くないと思う(自画自賛)。前述した、色弱、ないし、CUDという概念が死んだ世界(逆説的に、CUDが世界中にあまねく行き届いた仮の世界)において、特定のモノの見え方(色覚)をするグループ(集団)を色弱と定義する意味はなくなる。そうした中で、今でいう「色弱」と呼ばれる属性の人たちによって形成された文化はどういったものになり、どうなっていくのだろうか。形を変えながら残り続けるだろうか?それとも、何かのきっかけでフェードアウトしていくのだろうか?もし、仮に消えていく運命であるならば、記録は残しておきたい。こういう活動をしていた人が過去にいたのだと、どこかに足跡として刻んでおきたい。そんな気がした。
もしかしたら、毎月の CUD友の会 という活動自体がある種の文化形成のトリガーになるかもしれないし、すでにそうなっているかもしれない。もしくは、それ自体がすでに足跡になっていると信じたい。
…などということを、うつらうつらと考えた1日だった。